百万塔陀羅尼は世界最古の印刷物という事になっていましたが、「いや違う!」と思いがけないクレームつきました。お隣の韓国からです。世界遺産に登録されている名刹、仏国寺というお寺にある釈迦塔(石塔)の中から無垢浄光大陀羅尼経が発見されたのです。釈迦塔の建立は751年ですから百万塔陀羅尼より20年も古いのです。しかも則天文字が使われていました。則天文字と言うのは則天武后(中国唯一の女性皇帝)が作った新しい文字(17文字)の事です。三大悪女と呼ばれる程の人でしたので、その死後(705年)則天文字は使われなくなりました。従って発見された大陀羅尼経はそれ以前のものに違いないという訳です。かなり説得力があります。
それに対して我が国の学者は反論しました。出来栄えが非常に良いので新しいものに違いない。それから則天文字は後世においても使われていた。その証拠に我が国の水戸光圀の「圀」は則天文字である。「この印籠が眼に入らぬか!」と気張ってみてもやや分が悪いようです。
則天武后の則天文字
則天武后は凄い人で自分の生んだ子を殺して権力を手に入れたとされています。自分の生んだ赤ちゃん(当然皇帝の子)を皇后が見に来ました。勿論お祝いのためです。武照(則天武后の元の名前)はその場に立ち会いませんでした。そして皇后が去った後「赤ちゃんが死んでいる!」と騒ぎ出したのです。当然疑いはお祝いに来た皇后に向けられます。こうして皇后を失脚させ自分が皇帝と結婚し(まさに略奪)皇后となって権力を手に入れたのでした。実は時の皇帝高宗は結婚をためらいました。臣下の中に反対が多かったからです。しかし李勣(りせき)という臣下が「これは陛下の家庭の中の問題ですから我々に意見を聞く必要はございません」と返事をしたことで、高宗は武照との結婚を決意したと言われています。うまい事をいうものですね。で反対意見を言った者は次々と殺されています。
そして武后は前皇后と皇帝のもう一人の愛人蕭淑妃(しゅうしゅくひ)を百叩きの刑に処し手足を切って酒壺に放り込んで絶命させました。その時、蕭淑妃が「死んでお前はネズミになれ。私は猫になってお前を食い殺してやる」と言ったとか。以来武后は宮廷で猫を飼う事を禁止しました。それから投書箱のようなものを作り密告政治を進め政敵を次々と殺したり、気分で元号を変えたり物凄い皇帝となったのです。恐ろしい話はいくらでもあります。
製作時期の特定が難しい
さて10年ほど前、どちらが古いかの論争に終止符を打つような出来事がありました。韓国でその釈迦塔を詳しく調べたところ11世紀前半に納められたと書かれた文書が出て来たのです。
大陀羅尼経の最初の発見のきっかけは泥棒が釈迦塔の中のお宝を盗むため一部を壊したことによります。その時に大陀羅尼経を発見したのですが、しかしあまりの貴重品であり貴いものなので、バチが当る事(仏罰)を恐れ徹底調査しないまま石を元に戻し封印してしまったのです。ようやくもう一度よく調べようと言う気運が高まり調査したわけです。
私見ですが大陀羅尼経の則天文字は、何百年もの間筆写されて来たものを忠実に印刷したので、元になる本(定本)にあった則天文字がそのまま残ったのではないかと思います。
百万塔を作ったのは称徳天皇です。女性天皇で最初は孝謙天皇と名乗りましたが、一度引退して再度復帰して称徳天皇と名乗りました。このような事を重祚(ちょうそ)と言いますが歴史上二回あります。なお女性天皇は八人います。
さて称徳天皇と言えば弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を忘れてはなりません。道鏡は僧侶ですが不思議な力で称徳天皇の病を治しました。そのため称徳天皇は道鏡を取立て側近にすると、道鏡はどんどん出世し法王にまで上り詰めます。そんなある日とんでもない事件が起こりました。
パーチメントの開発後、百年程してからエジプトにはもう一人の世界三大美女クレオパトラが現れます。クレオパトラは父の遺言により弟のプトレマイオス十三世と結婚します。現代では兄弟婚など考えられませんが当時のエジプトでは普通だったようです。二人の間で権力争いが起きますが弟の方が実権を握りました。そこにローマのカエサル(シーザー)がアレキサンドリアに現れたのでした。クレオパトラはカエサルに会おうとしますが弟の監視の目が厳しく思うように行けません。そこで彼女は絨毯の中に隠れ、従者に持たせてカエサルの所へ行きます。スパイ映画を見ているような話です。絨毯の中から現れた美女クレオパトラ、息をのむカエサル。たちまち二人は恋に落ち子供まで作ります。
クレオパトラはローマと手を組みエジプトの権力を手に入れようとしたのでした。一説によるとカエサルの前にポンペイウスに接近していたようなのですが、ポンペイウスがカエサルに敗れたためカエサルに乗り換えたらしい。その後カエサルはローマの元老院で暗殺されてしまいます。その時「ブルータスお前もか」と言ったとか。そしてクレオパトラはまたしてもカエサルの後継争いをしていたアントニウスを恋の虜としてしまいます。クレオパトラの物語は全く紙に関係がありませんので話を戻すことに致しましょう。
パピルスの消滅
パーチメントの開発でパピルスの生産は打撃を受けましたが、それでも長きにわたって使い続けられました。何しろ紙の製法が伝わるまで千年も待たなければならなかったのですから。しかし紙の生産がエジプトで始まる(900年頃)とパピルスはすっかり姿を消し、その製法も全く分からなくなってしまいました。現在のお土産等で売っているパピルスは近年の研究と開発によって復刻されたもので、復刻には非常に苦労したと言われています。
復刻されたパピルスを手にしてみると薄くて平です。真白ではありません。折り曲げると割れてしまいます。従って糸で繋げて丸めて保存しました。そこは木簡と同じです。しかしある程度の面積のあるものが作れましたし、木簡より軽いのでとても便利な書写材と言う事が出来ます。
紙が中国から西方に伝わったのが751年のタラスの戦いによると申し上げましたが、その頃の日本に眼を向けてみましょう。
百万も印刷した陀羅尼経
大仏開眼が752年、764年藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱、769年宇佐八幡宮神託事件、そして770年百万塔陀羅尼完成。この百万塔陀羅尼は世界最古の印刷物として知られています。仏教に国の安寧を求めた称徳天皇が文字通り100万個も作らせたのです。十のお寺に十万基ずつ収めました。これだけたくさん作り奉納すれば御仏の功徳があまねく広がるであろうという訳です。木をロクロで削り上から見ると丸い形をした三重の塔のミニチュアです。直径10センチ、高さは22センチくらい。天辺の部分がくりぬかれていて、穴は相輪によって閉じられています。相輪を引き抜くと中は空洞になっていて丸めた印刷物(陀羅尼)が納められています。広げると幅4.5センチ、長さ15~50センチくらいの小さなものです。
印刷は版画の技法が使われたのは疑いの無いことですが、版は金属か木材かの論争があります。木の版では擦り減ってしまうので金属による版を使ったのではないかと考える方が多いのですが、何と実際に木の版で印刷実験をした人がいました。繰り返し印刷した結果、充分耐久性はあるとの事でした。だから私は木版で印刷したと思います。印刷された陀羅尼は4種類、それぞれ二つの版で刷りました。これだけたくさん作っても幾つかの理由により現存するのは法隆寺にあるもの以外はごくわずかになってしまいました。
さてパーチメントの話をする前に唐の玄宗皇帝のお気に入り楊貴妃について。傾城の美女と言われる歴史に残る女性の話を致しましょう。
楊貴妃に夢中になっていた玄宗皇帝には、もはや政の興味がありません。そして楊貴妃一族に対する優遇策は目に余るものがあり不満が増大し世の中も乱れて来ました。遂に安禄山という人が反乱を起こし洛陽を陥れます(安史の乱)。追い詰められる玄宗皇帝。とうとう都の長安を捨て逃げることにしました。不満はますます募り「こうなったのも楊貴妃のせいだ。楊貴妃を殺せ、さもないと我々は動かないぞ」という兵士の声が爆発。ついに玄宗はあれ程愛していた楊貴妃を殺す決断をしたのでした。哀れなるかな楊貴妃。これを機に玄宗は反撃に成功し長安に戻ります。
唐の話はもう一つどうしても紹介したい話があります。それは孫悟空の物語です。紙の歴史とは直接関係はありませんがやはり面白いので一寸だけ寄り道を。
木の葉に経典を書き残す
この暴れ猿は修行の結果何と絶対死なないという術を身につけてしまったので、乱暴の限りを尽くします。自らを『斉天大聖』と名乗り傍若無人にもお釈迦様の手の平の上で小便をひっかけ指に落書きまでしてしまいました。お釈迦様は悟空を懲らしめるため山の下敷きにして500年閉じ込めました。さすがは中国、話がデカイ。そこに通りかかったのが三蔵法師です。一緒に天竺に行くのなら助けてあげようと言って悟空を救い出します。こうして河童君、豚君、馬君とともに冒険の旅が始まるのでした。
三蔵法師は玄宗皇帝の少し前の太宗皇帝時代の実在のお坊さん(玄奘三蔵)です。インドに仏教の経典を取りに行きました。その頃のインドには紙はありません。経典は貝多羅(ばいたら)という木の葉っぱに書かれていました。貝多羅は加工して木簡のように仕上げ文字を書き巻物として保存されていました。これを大量に持って来たのです。日本では大化の改新が行われた頃。多くの危険と困難に打克って唐に帰って来た三蔵は生涯を翻訳に捧げました。皇帝太宗はそのための建物を造り篤く援助をしました。翻訳は当然紙に書いたのです。この頃まで日本と韓国を除けば紙は中国だけのものだったのです。
経済制裁・・・パピルスを禁輸
さてパーチメントの話を致しましょう。パーチメントが開発された(紀元前150年くらい)理由は分かっています。エジプトによる経済制裁がきっかけでした。話は古代エジプト、プトレマイオス朝の時代です。首都アレキサンドリアには世界一の大図書館がありました。何しろ寄港した船は本を全て提出しなければなりませんでした。写本をして図書館に納めるためです。実際には写本したものを船に「返還」したらしいのです。そうやって古今東西の貴重な文献を集めた大図書館の噂は地中海の向こう側にあるペルガモン国の大王エウメネスに影響を与えました。わが国にも立派な図書館が欲しいと思い立ったエウメネスはアレキサンドリアの図書館長をヘッドハンティングしようとしたのです。これに怒ったエジプト王はパピルスの輸出を止めてしまいます。まあ諸説あって真実かどうかわかりませんが、現代で言えば石油の輸出禁止のような事をしたわけです。困ったエウメネスが命じてパピルスに代わるものとして開発されたのがパーチメントと言われています。ペルガモンがその名前の由来になっています。
パーチメントは非常に優れた書写材と言えます。パッと見ると全く紙のようです。柔らかく折り曲げられる。両面使える。そして厚くも薄くも自由に作れる。更に表面を削れば書き直しが出来る(その分偽造が簡単)。丈夫で美しく文句の付けようがありません。ただ高いのが玉に疵で、安い紙に人気が集まるのは仕方の無い事でした。
孫権は返書を曹操に送ります。それは紙でした。開いて見ると何も書いてありません。「これは俺への挑戦状だ!」怒った曹操はビリビリに破いてしまいます。無地の紙が宣戦布告状だったのです。これはあくまでも映画のシーン(物語)ですが、実際に紙が作られるようになってからもかなり長い間、木簡、竹簡は広く使われていたのです。映画で曹操が木簡、孫権が紙を使ったことに興味を持ちました。
80万の大軍を率いた曹操は呉の孫権と赤壁の戦いに敗れ、これ以上を諦めて魏に引き上げました。諸葛孔明は軍師として大活躍したと三国志(正確には三国志演義)では語られていますが物語にすぎません。劉備もあまり活躍していません。実際に戦ったのは孫権の部下の周瑜(しゅうゆ)です。十倍以上の大軍を破った点で世界史に残る戦いとなりました。
和紙の生産が始まる
さて中国ばかりに眼が行ってしまいましたが、日本に製紙術が伝わったのは610年、朝鮮の曇徴(どんちょう)が伝えたという事になっています。日本書紀に記録があります。朝鮮では相当早くから紙の作り方が伝わっていたようです。朝鮮の紙は日本と同じ楮(こうぞ)を原料の中心にしていました。かなり高品質の紙を作っていた可能性があります。
604年聖徳太子が十七条の憲法を発布、「和を以て貴となす」で有名です。「和」は「やわらぎ」と読むのだそうです。三宝(仏法僧)を敬え。天皇の言う事は謹んで聞くように。そして役人は賄賂を貰うな、朝から夕方まで働け、サボるな、真面目にやれ・・・役人の心構えが多く書かれています。現在の憲法というイメージより役人心得帳のような感じです。
小野妹子が隋に行ったのが607年。この頃海上交通がかなり発達していたようでした。だいぶ前から朝鮮との交流があったのではないかと思われます。このような時期に製紙法が日本に伝わって和紙の生産が始まりました。そして幾つかの改良が加えられ、やがて世界一とも言うべき高品質の紙が作られるようになるのです。
ところで聖徳太子が十七条の憲法を出した時、何に書いて発表したのでしょうか。紙に書いたのでしょうか。その可能性はあると思います。既に輸入されていたと考えられるからです。もし紙が無かったらとしたら絹だったかもしれません・・・重要文書ですから。もしかしたら木簡だったかも・・・。残念な事にその当時の木簡は未だ発見されていませんが、一般の記録や命令はもっぱら木簡だったのではないかと思います。木簡はずっと長く使われました。
戦争捕虜が製紙法を
その頃の中国では隋の時代が終わり唐が成立します。日本からは遣唐使が派遣されます。
“天野原振りさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも” 有名なこの歌は唐に渡り玄宗皇帝に仕えた阿倍仲麻呂の歌です。仲麻呂は日本への帰国を熱望していたのですが、結局帰国は叶わず唐で一生を終えました。
この時代に唐の西の外れで一寸とした戦いが起こります。紙の歴史では重要なタラスの戦い(751年)です。アッバース朝というイスラム教を奉ずる国と戦争が起こったのです。唐の将軍は有名な高仙芝。味方の裏切りで敗れてしまいます。
この時の戦いで多くの人が捕虜(奴隷)となり、その中に紙を作る職人がいたことで紙の製法がイスラム圏に伝わりました。多少疑問のある話ですが一応定説になっています。そうして漸く紙がヨーロッパに拡がって行くのでした。紙は比較的早くにエジプトに到達しパピルスの生産は衰退してしまいます。しかしその頃パピルスに代わる書写材が既に開発されていました。
蔡倫は後漢の章帝に、そして章帝の死後は和帝に仕えました。章帝から和帝に政権交代が行われた時に重大事件が起きました。その事件とは次のようなものです。
章帝の正室は竇(とう)皇后。竇皇后には子供が出来ませんでしたが、章帝の愛人(宋貴人)には子供が出来ていました。その子が皇太子となって次期皇帝が決まってしまいました。竇皇后は焦ります。新しい皇帝が即位したら女性としてのトップの座を追われ権力を失うからです。そこで一計を案じました。竇皇后は章帝の別の愛人(梁貴人)との間に出来た子供を密かに貰い受ける事にしました。そしてわが子のように育てるのです。
ある日竇皇后が突然騒ぎを始めました。皇太子の母親(宋貴人)が呪いをやっていると。呪い=呪術の嫌疑を訴えたのでした。人形の胸に五寸釘を打ちこんで「死ね!」と言うあれです。呪いの儀式は反逆罪=重罪です。これは嫌疑をかけた方が圧倒的に有利で証拠となる人形を見つければ良いわけです。予め誰かに用意させておいて「あったぞ」と言わせるのです。要するにヤラセ=証拠のでっち上げです。非常に古典的なやり方ではありますがよく使われて来ました。
調査報告で出世
皇太子の母親(宋貴人)は捕らえられ厳しく取り調べを受けますが冤罪だと激しく抵抗します。そこで事の仔細を調査すべく任じられたのが蔡倫でした。そして調査の結果蔡倫は、皇太子の母親は呪術を行っていたと報告しました(せざるを得なかった)。そのため皇太子の母親は死刑、皇太子も次期皇帝の座を失い、竇皇后の育てた子供が次期皇帝(和帝)となったのでした。まんまと竇皇后の策略は成功しました。この「手柄」によって蔡倫は大いに出世するのです。ところが和帝が亡くなると運命が大きく変わります。次の皇帝となった安帝に蔡倫の過去についてチクる者がいたのです。安帝は呪術の嫌疑で殺された宋貴人の孫だったのです。祖母殺しの恨みは蔡倫にむけられます。運命を悟った蔡倫は身を清め静かに皇帝の使者を待ちました。使者は宮廷に出頭せよとの命令を伝え、そして毒薬を差し出します。蔡倫は静かに毒薬を飲みました。出世の切っ掛けが自らの命を縮めてしまったのです。およそ七十年の生涯でした。
このころから漢王朝は乱れて来ます。ますます宦官の力が大きくなって賄賂政治がはびこり、乱暴者の董卓(とうたく)や呂布が現れ漢は滅びてしまいました。そして宦官の末裔の曹操(そうそう)が出て来て中国の北東部を制定し魏を作ります。宦官の末裔と言うのもおかしな話ですが、その頃には宦官でも養子をとり家督の相続が認められていたのでした。ですから曹操はれっきとした「男」です。悪役として三国志演義(以下、三国志)には描かれています。
赤壁の戦いと紙
曹操のライバル劉備(蜀)に仕えた諸葛孔明が天下三分の計を以て曹操を苦しめます。諸葛孔明は劉備が三回も訪問して来たので仕える事を承諾しました(どうやら本当らしい)。そこから「三顧の礼」という言葉が生まれました。他にも「死せる孔明、生ける仲達を走らす」とか「泣いて馬謖を切る」という言葉が有名です。孔明は最後まで蜀の繁栄に力を尽くします。三国志は物語(小説)ですから正しい歴史書ではありません。史実7割と言われています。
三国志の中に戦いのハイライトとして、映画「レッド・クリフ」でも有名な赤壁の戦い(208年)がありますが、この映画の中にあった一場面に紙の歴史を物語る重要なシーンがあります。
曹操が80万の大軍を以て孫権(呉)を攻めようとして、孫権のもとに書状を送ります。その書状は木簡でした。木簡とは木を薄く削り細長く仕上げ文字を書き、糸で結び合わせ丸めて保管するものです。ここから「一巻の終わり」とか「圧巻」と言う言葉が生まれました。読むうちに孫権は怒り木簡を叩き折りバラバラにして戦う決意を固め、返書を用意するのでした。
さて、さて、お立ち寄り!
紙の仕事に従事して約半世紀となる当社顧問の加藤による「紙の歴史とよもやま話」シリーズが本日よりスタートします。全16回の長丁場となりますが、面白くて雑学が満載です。是非最後までお付き合いください!
それでは、始まり、始まり~!
紙の作り方を確立したのは中国、漢の時代の蔡倫と言われています。彼は発明者では無く改良者であると歴史の本には書いてあります。詳しい解説があり証拠も示されていますが、私は学問的な話になるとどうも退屈で眠くなってしまいます。それより蔡倫という人物と時代背景に興味があります。漢、蔡倫、宦官と言うキーワードから歴史を見ると、秦の始皇帝から楊貴妃までの中国史は断然面白い。あまり面白いので紙の歴史とその雑学を書いてみる事に致しました。雑学ですから話は飛ぶし、何の役にも立たない四方山話ですがどうぞお読みください。
中国で初の全土統一を果たしたのが秦の始皇帝。その後の混乱の時代を経て項羽と劉邦が激闘の末成立させたのが漢。司馬遼太郎等の小説でも有名になった漢成立の物語は“背水の陣”“四面楚歌”などの言葉が生まれるほどの、まさに歴史の名場面がいくつも登場します。蔡倫は漢の時代を生きた人でした。漢が滅ぶと三国志の物語=諸葛孔明とか曹操が活躍する時代へと移ります。そして紙の歴史では楊貴妃が玄宗皇帝をメロメロにした唐の時代までが最も重要なのです。
宦官は影の権力者に
蔡倫は後漢の時代の宦官です。宦官とは男であって男で無い宮廷に仕える役人の事を言います。出世の為に宦官となった人と、宮刑(役人に対する罰)によって宦官にさせられた人がいます。なぜこのような人がいるのかと言うと、後宮(日本で言う大奥)に出入りする者としての役割があったからです。そうです宦官は去勢手術を受けた男性なのです。皇帝や皇后に仕え朝な夕なに身の回りの世話をしますので家族同然となります。必然的に影響力は大きく影の権力者になり得る存在でした。肉体の違いは精神のコンプレックスを生み結束力が強く、金や権力に執着したと言われています。権力の中枢にいたので宦官の物語はたくさんあります。
宦官の中で最も悪名高いのは始皇帝に仕えた趙高(ちょうこう)でしょう。この人は「馬鹿」を作ったと言われています。趙高は始皇帝に仕える宦官で始皇帝が死んだとき傍にいました。そして遺言をねつ造し自分の言いなりになる胡亥(こがい)を次期皇帝にしたのでした。勿論自分の地位を維持したいからです。躊躇する胡亥に対し「断じて行えば鬼神もこれを避く」と言い放ちました。そして権力を握った趙高はある日、鹿を連れて来て「見事な馬だ」と言ったのです。趙高を恐れる人々は「馬だ、見事な馬だ」と言いました。「どう見ても鹿だろう」と言った者は皆あとから捕えられ殺されました。ここから「馬鹿」という言葉が生まれたと伝えられています。
『紙』はなぜ糸偏か
さて蔡倫ですが優秀な宦官だったようです。真面目で大いに出世しました。紙の作り方に工夫を凝らし見事な紙を作り皇帝に献上して誉められたと歴史書(後漢書の宦者列伝や東観漢記)にその名があります。石臼を使った事も記録に残っていて、紙の製造法を改良し確立した人として知られ、西安の西の方に蔡倫の(と伝えられる)墓があります。
そもそも紙は洗濯後の衣服(布)の屑から作られたと言うのが定説です。現代の我々も洗濯機を回すと繊維の屑が溜まるので適時に取り除いていますが、あの屑が紙の原料であったのです。紙のようなものは恐らく沢山の洗濯をした後、桶の水を取り換えずにいたところ水が蒸発し、シート状の物が残るなどして、自然発生的に見つかったものと思われます。そして蔡倫は古着、使えなくなった漁網や麻などを主原料として使用し、水の中から抄き上げる技法を確立したのだと思います。ですから「紙」は糸偏の漢字になっているのです。木材からパルプが作られ紙となると教わった私は、ようやく「紙」という字がなぜ糸偏なのかわかりました。
蔡倫は良質な紙を作った功あって出世をします。しかし蔡倫の出世はそれだけが理由ではありませんでした。
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一般的な中綴じノートですと、ノートを開いた際に折り目の中心部がどうしても膨らんでしまいます。ところがこの「水平開きノートⓇ」は、読んで字のごとく、どのページを開いても完全に水平になります。
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【商品使用時の注意点】
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ご質問お待ちしております。
ご存じですか?
鎌倉にある文具店兼代書屋のツバキ文具店を。
代書屋というと、運転免許試験所の近くで見かける行政書士事務所のことを思い浮かべる方も多いでしょうが、ツバキ文具店が行っている代書はそれとはちょっと違うのです。
持ち込まれる案件は、ラブレターだったり、絶縁状であったり……。それを本人に成り代わって、一から文面を考えて代書し、封筒、便箋、筆記具、書体、切手に至るまでこだわりをもって手紙を仕上げて投函する。
――家族、親友、恋人⋯⋯。伝えられなかった大切な人ヘの想い、
伝えておかなくてはならない大事なこと。
「あなたに代わって、お届けします」
2017年本屋大賞の第四位に選ばれた小説『ツバキ文具店』(小川糸 著/幻冬舎)で描かれているのが、この代書屋なのです。
主人公は、祖母(先代の店主)が亡くなった後に店を継いだ20代の独身女性「雨宮鳩子」。幼少の頃から、代書屋の跡継ぎとして祖母から厳しく仕込まれてきたのですが、それに反発して家を飛び出してしまい、この度、祖母の訃報を受けて8年ぶりに家に戻ってきたのです。本来は店を畳むつもりで家に戻ったのですが、本人の思いとは別の次元で物事は動いていき、結局、文具店を継ぐことになり、しかも代書屋までも……。
心の底がポッと温かくなるハートフルな物語が展開していきます。
4月14日からはNHK総合でドラマもスタートし、主演の多部未華子さんが好演しています。
(NHKの公式HPはコチラ⇒ http://www.nhk.or.jp/drama10/tsubaki/)
この本を読むと、もしくはドラマを見ると、ペンを持って手紙を書きたくなるんですよね~、これが。
特にドラマでは、手紙を仕上げていく過程―ペンを選び、紙を選び、依頼人らしさがにじむように書体・筆跡を整え、文体を仕上げていく様子―がシーンとして描かれているので、見ていると、より一層私たちの”書き心”を刺激してくれます。
例えば第三話『けじめの断り状』では、こんなシーンが描かれています。
主人公/鳩子のモノローグが映像と共に流れます。
「男爵(依頼人/高齢者)の雰囲気には毛筆よりも太めの万年筆が合っている。インクは漆黒。紙は便箋ではなく原稿用紙を使う」
鳩子は心を整えて、男爵になったつもりで原稿用紙に万年筆を走らせる。
<ナレーション:友人からの借金の申し入れを断る内容の文面が読み上げられる>
書き終えてほっと息をつく鳩子。「男爵の心意気を示すために脇付をあえて付け加えた。『呵々』というのは、あはは…と口を開けて大声で笑う様子を表している」
そして封筒に切手を貼る。鳩子のモノローグが流れる。「金剛力士像の切手は500円。これでは払いすぎだけど、絶対にお金は貸せない…という男爵の強い意志を示すにはこれくらいのことはしていだろう」
どうです?
このこだわり。
原稿用紙に、太い万年筆で、漆黒の文字が刻まれていきます。
切手を貼ると、切手の中の金剛力士像がこちらを睨んでいる。
う~ん、手紙の世界も奥が深いですね~。
何だかステキですよね。
先日2月3日の「文の日」の記事の中でこんなことを書きました。
”想い”は文字だけで伝えるものではなく、紙にもペンにも乗るものです。
受け取った方は、”ふみ”を通してあなたの”想い”を感じるのです。
『ツバキ文具店』を見ていて、改めてその認識を強くしました。
――そうだ、手紙書こう
紙のご相談はシオザワまで。