紙と歴史のよもやま話-14「昭和の紙業界」

 1933年(昭和8年)に王子、富士、樺太の三社は正式に合併しました。もうそれ以外選択肢は無かったほど景気が悪く各社ともに追い込まれていたのです。しかし王子の財務内容は比較的良く他社よりも体力があったと言われています。合併後の社名は王子製紙です。圧倒的なシェアーを持つ巨大製紙会社の誕生で市況は安定し利益も出るようになりました。景気が良くなったのも幸いしました。絶妙のタイミングだったのかもしれません。
この時代の事は日清・日露戦争、第一次世界大戦、関東大震災、昭和恐慌など歴史全体を見ながら考えると極めて教訓に富んだ時代だったと思います。
 1927年(昭2)に東京渡辺銀行が倒産しました。事の発端は時の大蔵大臣片岡直温(かたおかなおはる)が国会で「ただ今、渡辺銀行が破たん致しました」と口を滑らしたところから始まります。渡辺銀行は厳しい経営難に陥っていたものの営業は継続していました。間違った情報が本会議中の片岡に届けられてしまったのです。片岡の発言を受けて取り付け騒ぎが起こり渡辺銀行は完全に破綻してしまいます。取り付け騒ぎと言うのは、多数の預金者が銀行から現金を引出すため我先にと殺到する騒ぎの事です。群集心理で人々は殺気立ちます。

夜逃げをした祖父

やがて全国でも取り付け騒ぎが起きました。騒ぎを鎮静化するため日銀は紙幣の印刷を増やしました。しかしとても間に合わずとうとう片面印刷の紙幣まで発行しました。
東京渡辺銀行の倒産で私の祖父は預金を引き出すことが出来ず、全財産を失い借金だけが残り夜逃げ同然の引越をしました。もう全く貧乏の極みだったと父は言っておりました。
 その後、台湾銀行が休業に追い込まれ鈴木商店が倒産します。まさに大不況が訪れたのです。鈴木商店は日本を代表する大商社で台湾銀行から膨大な借り入れを行っていました。このような時代ですから製紙会社の経営が苦しくなったのは当然と言えば当然です。
1937年(昭12)日中戦争が始まりました。それが泥沼化しアメリカとも戦うようになって総動員法が成立し、国策によって製紙会社は強制的に合併をさせられます。王子製紙もいくつかのメーカーと合併し巨大になりました。他にも同様の合併会社が誕生し紙は政府によって完全に統制され、自由に手に入らないし自由に売れない状況になりました。実績に応じた配給制度になったのです。新聞社も出版社も年々部数の削減を余儀なくされました。米や砂糖と同じく貴重品になったのです。もっともこの頃はあらゆるものが手に入りにくい状況でした。

 

1945年(昭和20年)の戸越公園駅
1945年(昭和20年)の戸越公園駅

敗戦、統制の撤廃

そして戦後、国内の製紙工場は戦火で大きなダメージを受け、満州や樺太の工場を全て失いました。生産量は大激減。そのため紙の統制は暫く続きました。
統制の撤廃は1946年(昭和21)に実現しましたが完全な自由化が実現したのは1951年です。
この統制撤廃には業界の大運動があって初めて実現したと言われています。当時の政府は紙の専売を目指していました。専売と言っても若い人にはピンと来ないかもしれませんが、私の幼い頃は米、塩それにタバコが国による専売でした。勝手に作って勝手に売ることは出来ません。同じように紙も専売制にして国家財政に寄与させようとしたのです。
当時は「配給公団方式」と呼んだようです。それは極端に需給のギャップがあったせいでもありますが、商権を国に奪われる事になりますから業界は猛反対しました。そこにGHQが経済に国があまりに関与すべきではないと政府案に反対しました。GHQの命令は絶対ですから自由化が認められ次々と商権復活がなされたのです。
お蔭で私の父も生きて行く糧を見つけることが出来、今日の私も居るという訳です。