紙と歴史のよもやま話-2「蔡倫の死と漢の滅亡」

 蔡倫は後漢の章帝に、そして章帝の死後は和帝に仕えました。章帝から和帝に政権交代が行われた時に重大事件が起きました。その事件とは次のようなものです。
 章帝の正室は竇(とう)皇后。竇皇后には子供が出来ませんでしたが、章帝の愛人(宋貴人)には子供が出来ていました。その子が皇太子となって次期皇帝が決まってしまいました。竇皇后は焦ります。新しい皇帝が即位したら女性としてのトップの座を追われ権力を失うからです。そこで一計を案じました。竇皇后は章帝の別の愛人(梁貴人)との間に出来た子供を密かに貰い受ける事にしました。そしてわが子のように育てるのです。
 ある日竇皇后が突然騒ぎを始めました。皇太子の母親(宋貴人)が呪いをやっていると。呪い=呪術の嫌疑を訴えたのでした。人形の胸に五寸釘を打ちこんで「死ね!」と言うあれです。呪いの儀式は反逆罪=重罪です。これは嫌疑をかけた方が圧倒的に有利で証拠となる人形を見つければ良いわけです。予め誰かに用意させておいて「あったぞ」と言わせるのです。要するにヤラセ=証拠のでっち上げです。非常に古典的なやり方ではありますがよく使われて来ました。

 

調査報告で出世

 皇太子の母親(宋貴人)は捕らえられ厳しく取り調べを受けますが冤罪だと激しく抵抗します。そこで事の仔細を調査すべく任じられたのが蔡倫でした。そして調査の結果蔡倫は、皇太子の母親は呪術を行っていたと報告しました(せざるを得なかった)。そのため皇太子の母親は死刑、皇太子も次期皇帝の座を失い、竇皇后の育てた子供が次期皇帝(和帝)となったのでした。まんまと竇皇后の策略は成功しました。この「手柄」によって蔡倫は大いに出世するのです。ところが和帝が亡くなると運命が大きく変わります。次の皇帝となった安帝に蔡倫の過去についてチクる者がいたのです。安帝は呪術の嫌疑で殺された宋貴人の孫だったのです。祖母殺しの恨みは蔡倫にむけられます。運命を悟った蔡倫は身を清め静かに皇帝の使者を待ちました。使者は宮廷に出頭せよとの命令を伝え、そして毒薬を差し出します。蔡倫は静かに毒薬を飲みました。出世の切っ掛けが自らの命を縮めてしまったのです。およそ七十年の生涯でした。
 このころから漢王朝は乱れて来ます。ますます宦官の力が大きくなって賄賂政治がはびこり、乱暴者の董卓(とうたく)や呂布が現れ漢は滅びてしまいました。そして宦官の末裔の曹操(そうそう)が出て来て中国の北東部を制定し魏を作ります。宦官の末裔と言うのもおかしな話ですが、その頃には宦官でも養子をとり家督の相続が認められていたのでした。ですから曹操はれっきとした「男」です。悪役として三国志演義(以下、三国志)には描かれています。

赤壁の戦いと紙

 曹操のライバル劉備(蜀)に仕えた諸葛孔明が天下三分の計を以て曹操を苦しめます。諸葛孔明は劉備が三回も訪問して来たので仕える事を承諾しました(どうやら本当らしい)。そこから「三顧の礼」という言葉が生まれました。他にも「死せる孔明、生ける仲達を走らす」とか「泣いて馬謖を切る」という言葉が有名です。孔明は最後まで蜀の繁栄に力を尽くします。三国志は物語(小説)ですから正しい歴史書ではありません。史実7割と言われています。
 三国志の中に戦いのハイライトとして、映画「レッド・クリフ」でも有名な赤壁の戦い(208年)がありますが、この映画の中にあった一場面に紙の歴史を物語る重要なシーンがあります。
 曹操が80万の大軍を以て孫権(呉)を攻めようとして、孫権のもとに書状を送ります。その書状は木簡でした。木簡とは木を薄く削り細長く仕上げ文字を書き、糸で結び合わせ丸めて保管するものです。ここから「一巻の終わり」とか「圧巻」と言う言葉が生まれました。読むうちに孫権は怒り木簡を叩き折りバラバラにして戦う決意を固め、返書を用意するのでした。